残んの月

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太陽の昇る前の濃く青い、または薄紫色の空間の中
南の空に浮かぶ下弦の月を見たことのあるみんなへ
そして
私を支え助けてくれているみんなへ

 

 

ああ、もうどうなってもいいからずっとこの人と一緒にこうしていたい。こんなふうにシーツにくるまってその中で狂ったように愛しあいたい。彼が手をわたしの背中にまわしてきつく抱くときが一番感じるから。この人はわたしを愛してくれているんだって。
なんだか切羽詰まって泣きそうなわたしは彼の唇に自分の唇を押し当てておもいっきりキスをする。彼もそれに答えてくれる。
彼はわたしに触れようともしない夫じゃない。

「いいの?こんなに遅くなって」
俊夫が行為の終わった後、煙草を吸いながら言う。わたしはまだ夢の中にいて彼の胸に自分の火照った顔を押し当てていた。
「だいじょうぶ」
夫には今夜は友達たちと飲みに出かけて遅くなると携帯電話のメールで送っておいた。夫もいつも帰るのは遅い。それに最近は朝起きても話もしないし、わたしは黙々と彼のためのベーコンエッグを作ったりパンを焼いたりして忙しくしている。パンはいつも俊夫の店のだ。俊夫はパン屋をしている。
俊夫は
「よかった」
と一言つぶやいて煙草を消して、わたしのほうに向き返り
「きれいだね」
と言ってわたしに覆いかぶさってキスをした。わたしはこういう瞬間にくらくらとめまいを感じてしまう。俊夫の唇は吸ったばかりのメンソールの味がする。
「あなたこそ大丈夫?朝、早いんじゃないの?」
もっと一緒にいたいくせに、こういうとこは年上の風を吹かしてしまう。
「そうだな。じゃ、そろそろ帰る?」
俊夫が笑って言う。彼にはわかっているんだ。
「いや」
そう言ってわたしは彼の体の上に乗り手をまわして彼のあそこを握る。まだ硬い。
「ね、もう一回しよう」
わたしは言う。彼は何も言わずにわたしの乳首をつまみ手のひらで優しく乳房を包む。わたしは声が出る。いつものように。

 

わたしが俊夫に会ったのは、近所でオープンしたパン屋さんのパンがとても美味しいからと、妹の百合子がわたしの家に日曜の午後来た時に一緒に食べようと沢山買って持ってきたことがきっかけだった。百合子は独身で小学校の教師をしている。美味しいものが好きで、よく新しいラーメン屋やフレンチの店ができるたびにいそいそと出かける。たまにわたしも誘われて二時間くらい電車に乗って行くこともあった。

「あら、美味しそうね」
茶色の紙袋に入ったたくさんのパンを見てわたしは言った。
キッチンでわたしは百合子にコーヒーを沸かし、オーブントースターで少し温めた丸い玄米パンや四角い雑穀の入ったパンを薄く切ったものとライ麦パンを白いプレートに置いた。
「バターいる?」
「いるよ。つけると美味しいんだから。これ」
「百合ちゃんはほんと美味しいものに目がないよね」
「そうよ。生きがいよ。給食なんてまずくて食べられなくって困ってて」
「そうなの?」
固まりのバターを冷蔵庫から出して少し切り、小さなガラスの皿に入れ、食器棚の引き出しからバターナイフを出した。コポコポとコーヒーメーカーのコーヒーの落ちる音を聴く。
「静かね、ここ。なんかこう、隔絶された場所みたい」
百合子が窓の外を眺めながら言った。窓からは寒そうな葉のない街路樹が見える。
「そうね」
「ね、どう?その後」
「その後って」
わかっているけれど少し誤魔化す。そういう話をする気分じゃないんだけどな。美味しそうなパンを目の前にして。
「旦那と、よ。日曜だけどいないのね」
「ゴルフって言ってるわ」
百合子が雑穀パンを手に取りちぎりバターを丁寧に少しつけながら言った。
「そう。で、いいの?そのままそうしてて」
「わかんなくて」
言いながらコーヒーをコーヒーメーカーのサーバーから二つのカップに入れた。結婚祝いにもらった紫のプルーンのついているカップだった。
夫は浮気をしているらしい。それがわかった時は本当にどうしていいかわからない気持ちだったので百合子に涙ながらに聞いてもらったのだ。それから数日が過ぎていた。確かめようともわたしはしていなかった。
「だって、もう、そういうことしてるんだったら今更どうしようもないじゃない」
「お姉ちゃんはのん気だよ。今だったら、浮気現場でもつきとめて慰謝料もらって別れるって手もあるじゃない」
「そうねえ」
わたしはライ麦パンを齧ってみた。
「美味しい」
外側は固いのに中はふわっとしていて、とても優しい味がした。
「でしょ。男の人が一人でやってるんだけどさ、なかなか評判よ」
「へえ。そうなんだ。どこでやってるの」
百合子が場所を教えてくれた。百合子の通う小学校の近くだった。
「あら、割と近いのね。あたしも買いに行くわ」
「朝行かないと売り切れちゃうよ」
「そうなんだ」
わたしはコーヒーを飲んで他のパンも食べてみた。どれも美味しくてまた食べたい味だった。


夫が「あのさ、今日はもうかけて来ないでくれる?まずいからさ」と小さな声で話すのを聞いたのは、わたしが風呂に入ろうと風呂場のそばの洗濯機の置いてある場所で服を脱いだ後、風呂場に持っていくのを忘れた洗顔フォームを取りに寝室に行こうとしてドアを開けた時だった。リビングルーム兼キッチンの部屋に夫はいた。ドアはその部屋に続いている。ドアを夫にわからないように少し閉めてわたしは声を殺して彼の話す声を聞いていた。裸にバスタオルを巻いた姿だった。
「うん、うん、わかってるよ。明日の夜は必ず行くから。泣かないで。わかったから。そんなことは全然してないから大丈夫だよ。ほんとだってば。もう全然してないって。これからだって。さやかとだけだって。うん。ごめんよ。明日ね」
夫は携帯電話を切り、上げていたらしいTVの音量を下げ、TVを見ながらビールを飲んでいる。わたしは音を立てずにゆっくりとドアを閉め、洗顔フォームを取りに行くのはあきらめた。
全然しないって、セックスだわ。確かにずっとしていないわ。数年になる。


セックスレスになってわたしに魅力がないんだろうとか、彼の能力に欠陥があるんじゃないだろうかとか一人で悩んだこともあった。長年一緒にいるのでその気もなくなるんだろうと世間ではよく話しているし新聞や雑誌でもセックスレスの特集をしていたりして読み、そうか、こんなもんなんだろうなと思っていた。夫とそのことについて話したことすらない。わたしたちに子供はいなかった。

なぜか嫉妬心というものが生まれてこなかった。さやかという知らない女にも。泣いていると言っていた彼女に同情さえしていた。
こんな夫(ひと)に思いあげてる女がいるんだわ。
わたしにはそんな気持ちしかもう残っていなかったけれど、夫がさやかという女と話した翌日の晩、確かに帰りの遅い夫のいない時間にマンションに一人でいると無性につらくなってきていつもするように針を持つこともできず、どうしようもない気持ちになり百合子に電話をかけて話してしまったのだ。

 

女ってこんなものかしら。わたしってこうだったかしら。
買い物に出てスーパーマーケットのカゴに必要のないものまで入れてレジに行った。外に出たついでに百合子の話していたパン屋まで自転車で行った。風が冷たい冬の日の朝で、手袋をしている手もかじかんでいた。
パン屋はこじんまりとしていて、どこか外国のパン屋さんのようふうだった。チリン、とドアを開けると心地よい音がした。店は暖かく、誰もいなかった。焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂っている。ショーウインドウのケースに入っている色々なパンを見ると心が和んできた。どのパンにしようかしら。朝御飯にはいつもパンを食べているので美味しいパンを見つけると嬉しい。しばらくしても誰も出て来なかった。
「ごめんください」
わたしは店の奥のほうの、きっとパンを作っているところだろう、そこに向かって声をかけてみた。しかし誰も出てこない。
わたしは美味しそうに並んだパンを眺めながら少し待った。
「すいません!」
そう言いながら大柄な男が店のドア開けて入ってきた。ドアのチリンという音がやけに大きかった。
「お待たせしちゃってすいません!ちょっと配達に行ってまして。隣のおばあちゃん家なんですが一人で住んでるもんで話しこんじゃって、つい遅くなっちゃって」
「いいですよ。あなたのおばあちゃんなの?」
「いえ、違うんですが。ちょっと寝たきりなとこもあったりしてて心配なんすよね」
「へえ」
「俺のパン、気にいってくれてて、お孫さんにもって……あ、すいません」
彼はショーウインドウの向こうに回った。
「どれにしましょう。待たせちゃってすいません。ほんとに」
わたしは思わず
「あなた」
なんて言ってしまった。馬鹿みたい。何言ってんだろう。わたし。
彼の表情は一瞬固まってゆるみ、笑い出した。あはははは……。あはは。わたしも笑った。
「朝から何言ってんでしょうね、ごめん。この玄米パンを5
つ、お願いしようかな」
「わかりました」
彼はパンを丁寧に取り出して茶色の紙袋に入れた。わたしはお金を払って店を出た。
チリン、とまたドアの音がして、少しわたしはほほえんだ。なんだかあたたかい。ふわっとした気持ちになっている。
玄米パン5
個はすぐになくなってしまい、次の日も雪がちらついていたけれど午後遅く俊夫の店に出かけた。きっと鼻は赤くなっているだろう。
「あ、いらっしゃいませ。今日は寒いですね」
今度は俊夫はちゃんと店にいた。ショーウインドウの中にはほとんどパンは残っていなかった。
「寒いよねえ。雪降ってるよね。あら、あまりないのね」
「すいません。この時間になるとあまりなくって」
俊夫はすまなそうに言った。
「そうね、これ、何パンかしら」
わたしは丸いパンを指差した。
「これはカンパーニュです」
「美味しそう。それ、いただくわ」
「ありがとうございます」
嬉しそうな声だった。この人って素直なのね。そう思った。
「寒い中、ありがとうございます」
帰り際に俊夫が言った。わたしは
「いえ。ありがとう」
と言ってドアを開け、茶色の紙袋を自転車の籠に入れた。ガラスばりになっている店の正面の向こうで俊夫が笑って手を振った。チリン、というドアの鈴の余韻を聞きながらわたしも手を振って笑った。


それから毎日、わたしは俊夫のパン屋に出かけた。焼きたてのパンが欲しかったのかもしれないし彼に会いたかったからかもしれない。夫は相変わらず浮気をしているようで、夜が遅かった。わたしは何をしようとしているのか自分でもわからなかった。夜、いつもひとりでTVをつけて手芸をした。コットンの布でランチョンマットを作ったり、コースターを手縫いで作るのが好きで結婚前からよく作っていた。ある寒い朝、こしらえたランチョンマットを俊夫に持っていった。
「今日は何にしましょう」
俊夫が店に入るわたしに言った。他に一人、客がいたので、わたしは考えるふりをして客が帰るのを待った。客が帰ると
「これ、あげるわ」
と、ショーウインドウ越しに紙のバッグを差し出した。
「え、なんすか」
俊夫は驚いて中身を見た。
「ランチョンマット。よかったら使って。二枚、入れてるから。作ったの」
「ええっ。すごいですね!」
俊夫はランチョンマットを出して眺めた。黄色いタンポポの刺繍をベージュのリネンの生地にしたものだった。
「刺繍、自分でしたんですか」
「うん。そう」
「すごいですね。ドイツのみたい」
「あ、ドイツのそんなのって素敵よね。生地もかわいいし」
「いやあ、いいんですかね、もらっても。俺なんかが」
「いつも美味しいパンをいただいているからお礼。彼女とふたりで使って」
「あはは、彼女なんていないっすよ」
「うそ」
「ほんとです」
「じゃ、作って。彼女」
少し俊夫は黙ってランチョンマットを袋にしまった。あれ、何か気に障ったかな。
「結婚してるんすか」
「わたし?ええ」
「そうですよね。そうだと思いました」
「どうして?」
「毎日、買いに来てくれるから。旦那さんがお好きなんですか、パン」
「いえ、わたしが好きなのよ」
「そうなんですか」
きっと夫はわたしが突然ご飯とお味噌汁の朝御飯に変えても何も言わないに違いない。
「そう」
その日は、ライ麦パンを買った。


「あの時、俺、さっちゃんが結婚しててもかまわないってずっと思ってたんだけど言えなかったんだ」
俊夫は後でそう言っていた。
「結婚してようがしてなかろうが好きなことにはかわらないから」


ある日の午後に俊夫の店に出かけたわたしはパンが全くなかったので残念だった。俊夫が気の毒そうにわたしに言った。
「今日はちょっとレストランの注文が急にたくさん入っちゃって。奥さんのために残しとこうとは思ったんだけど。すいません」

「奥さんは佐知子っていいます」
わたしは言った。俊夫が
「俺は俊夫っていいます」
と言って真面目な顔をしているのでわたしは思わず噴出して笑ってしまった。
「仕方ないわ。レストランなんてすごいじゃない。がんばって」
「ありがとうございます。あ、よかったらメールでお知らせしますよ。アドレス教えてもらえれば。これ、焼きました、とか。ここんとこ新しいパンのも考えてて」
「え?そう?そうね。わたしも行く時メールすればいいのよね。玄米パン置いといてとかって」
「そうです」
わたしは携帯電話を取り出してアドレスを教えた。ついでに電話番号も。何かを期待しているのかもしれない。そんなことを考えながら俊夫の黒い携帯電話を持つ大きな手を見つめた。この手があの優しい味のパンを作るんだわ。

 

俊夫に抱かれる夢を見たのはその日の夜だった。夢の中でわたしは声を上げて喘いでいた。夜中に目が覚め、少し汗ばんだ体を冷やそうとキッチンへ行き水を飲んだ。その晩、夫は週に一度は行く主張でいなかった。部屋に一人でいると、しいんと何か心に迫ってくるものがあった。寂しさとは違う。
わたしは一人でいいんじゃないだろうか。
今、なぜ結婚などしているんだろう。夫への愛情なんてもう残ってないのに。夫だってそうなのに。
窓を開けてみた。通りは誰も歩いてなどいなかった。マンションは一階だった。風は冷たく火照った顔を冷ました。パジャマ一枚で寒いはずなのに寒さを感じなかった。空には真冬らしく星がたくさん綺麗にまたたいていて、きらきらと揺れるように見えるのは風が強いせいだろう。星空をしばらく眺めていると涙が出てきた。わたしはもう一人でいいんじゃない?また思った。俊夫が好きなんだ。彼とずっと話していたいしもっと彼のことを知りたい。きっとセックスだって夢でみたようにしてみたいんだ。わたしはどうして結婚なんてしているんだろう。昔はこうじゃなかった。夫と一緒に出かけたりするのも楽しかったし彼のための夕食を準備したりお弁当を作るのだって喜んでやっていた。寝室のカーテンまで手作りにしたり、布団カバーを作ったり。いつの頃からか夫は外食が増え飲み屋などに行くようになり帰りが遅くなって数年経った。仕事の関係でつきあいが増えたのはわかるのだが、ひょっとしたら浮気はその頃からずっとしていたのかもしれない。きっと子供がいないことも原因だろう。
窓を開けたまま冷蔵庫から赤ワインを出してワイングラスについで飲んだ。空を眺めながらワインを飲んだ。

わたしは女だ。どうしようもなく女だ。どうしてこんなに仕方のないほど女なんだろう。

 

次の日の朝は二日酔いで頭痛の中を目覚めた。俊夫から朝早い時間にメールがきていた。
<おはようございます。今日はコーンを入れたパンを作ってみました。試食しませんか>
絵文字などない文章だった。わたしは返信をしなかった。
バスタブにお湯を張って身を整えてから歩いて出かけることにした。少し歩いて考えたかったし、二日酔いの頭を冷やしたかった。風はまだ冷たくフラノのコートが暖かく感じた。道を行く幼い子供たちの歓声。裸の街路樹。わたしはまるでこの木々に同化しているような気がした。
出かけたのは午後になっていた。
チリン、といつもの音をさせて店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
俊夫が新聞を読みながら座っていた。
「あら、テーブル。出したんだ」
店の壁際に小さな白く丸い木のテーブルと椅子がふたつあって、一つの椅子に俊夫が座っていた。
「あ、ええ」
俊夫は短く答えて新聞を畳み、椅子の背にかけていた白いエプロンを身につけた。
「何にしましょう」
ショーウィンドウの向こうに回った。テーブルの上にはわたしがあげたランチョンマットがふたつ、向かい合わせに敷いてあった。
「あ、置いてくれてるんだ。ありがとう」
「いえ」
「コーンのパン……」
「売り切れました」
「あら、そうなの」
「今朝、メールしたんですけどね」
「ありがとう。返信してなくてごめんなさい」
「いえ、奥さんは忙しいでしょうし」
俊夫の声を聞きながら自分の作ったランチョンマットを見ていると涙があふれてきた。
「どうしたんですか」
わたしの顔を見た俊夫が慌ててわたしのほうに回ってやってきた。
「あ、エアコンの埃でも目に入りましたか。すいません。切ります。俺もエアコン苦手なんだけど。あ、すいません。そっか。コーンパン、そんなに欲しかったんですか」
馬鹿ね。欲しいのはあなたよ。
そう言いたかった。言えなかった。わたしはうなだれて自分がどうにかしてこんなふうに泣くのを止めようとしていた。
「な、泣かないで下さい。泣かれると」
「ごめん」
わたしは小さい声で泣きながら言い、俊夫を見た。俊夫もわたしを見た。
俊夫が急にわたしを抱き寄せた。わたしはそうされるままに彼の胸に顔を埋めて泣いた。いつまでも涙が止まらない気がしてきた。
「あ」
短く叫ぶと、俊夫はわたしから離れ、慌てて店のドアの鍵をかけ数枚ある店内のブラインドをさっと下ろしていった。それが終わると、
「泣かないで下さい。お願いだから」
と、もう一度言ってわたしの体に手をまわして抱いた。わたしも俊夫の体に手をまわした。俊夫はあたたかくほのかにパンの匂いがした。わたしは深い安堵感に包まれて深いため息をついた。俊夫がわたしの顔を両手で包み上に上げてキスをしてきた。体中がしびれる感じがしてわたしは動けなかった。
もういい。もうこうなってしまったわ。

もういい。その言葉だけが頭の中にあった。


それから俊夫と何度か紫陽花ホテルに行った。夫の帰りが遅くなるとわかっている夜や、出張の晩、俊夫の店の近くの小さなスーパーマーケットの駐輪場にわたしは自転車を停めて彼を待ち、彼が自分の車のスズキのバンに乗って現れ、彼の車に乗り込み紫陽花ホテルに向かった。紫陽花ホテルというのはわたしが名づけたラブホテルだ。中庭に紫陽花がたくさん植えられていたのでそう呼ぶことにした。今は冬だったので茎しか見られなかったけれど。紫陽花の頃までここに来られるかしら。
え?何?何て言ったの。ホテルの親密な空気の中で、わたしを抱きながら俊夫が耳元で聞く。紫陽花の咲く頃まで一緒でいたいなって言ったの。馬鹿だな。来よう、ずっと一緒だからさ。そう?嬉しい。何度も頂点に昇り詰めそうになりながらまたわたしは泣きそうになる。いったい俊夫と会ってから何度泣いたんだろう。
紫陽花ホテルに来るようになって俊夫の年齢を知った。35歳だった。わたしは38歳だ。彼の過去の話を聞く気もなかったし、彼も一度もわたしの結婚の経緯や夫の話を聞いてきたことはなかった。それにそんなことはどうでもよかった。今、俊夫と一緒にいることだけが、一緒にいる一瞬一瞬がいとおしく思えたのだ。この時間だけのためにわたしは生きているような気さえしていた。


「転勤になりそうだよ」
夫がそう切り出したのは、もうそろそろ春物の服を箪笥から出さなきゃいけないわ、俊夫に会うにはおしゃれをしていたいし、と思いながら俊夫の焼いた玄米パンをオーブントースターに入れている最中だった。TVのニュースを目で追いながら夫はコーヒーを飲んでいた。
「え」
わたしはフライパン返しを持ったまま振り返って夫を見た。フライパンではオムレツにしようとしている卵がジュウジュウうなっていた。
「赤木町に転勤になりそうなんだ。支店長。すごいだろ」
本来は喜ぶべきなんだろう。支店長になるっていうんだし。
「え。でも急だわ。ずっと遠くじゃない」
「まあ、そうだけどさ。仕方ないよ。銀行員なんだから」
「わたし、ここで生まれたから、なんていうか……急で」
「佐知子の短大は京都でここを出てたことあるんだろ?今まで転勤がなかったのが不思議なんだけどな。フライパン、いいの?」
「あっ」
オムレツは見事に失敗し、夫はパンだけ食べて出かけた。パンを食べている時、わたしは言った。
「いつも食べてるパンもこの町のだし。おいしいのに」
「お母さんとお父さんにも連絡しときなよ。百合子さんにも」
と夫は言いながらキッチンを出て玄関へ向かった。
わたしはぼんやりしてコーヒーを飲んでいた。
夫だってさやかという女とどうするつもりなんだろう。赤木町っていったら、この地方都市から電車で1時間半くらい行った場所じゃない。わたしは俊夫と……。


はっと気がつくとわたしはまだ食卓にいて時計を見ると12時過ぎになっていた。ぼんやりしながら、ずっと座っていた。洗い物もしていなかったし天気がいいのでしようとしていた洗濯もしていなかった。窓の外は青空だった。わたしは買い物バッグに入れたままにしてある携帯電話を取り出し俊夫にメールをしようとした。彼からはいつものように朝早い時間、午前5時頃に<おはよう。コーヒー飲んで一息入れています。仕込みが全部終わったよ。今日のパンは良い出来だぜ>なんて入っていて、わたしも目覚めた時に既に返信はしてあった。メールの新規作成の画面を開けながら、わたしは何と文字を入れるつもりなんだろう、とためらった。
メールはしないことにして、外出することにした。洗い物も洗濯もする気がしなかったので帰ってからすることにした。

出かけたのは両親の家だった。百合子も一緒に住んでいる。お正月以来なのでなんだか少し気がひけて、和菓子屋さんでカステラを買って持って行くことにした。平日なので百合子は学校に行っていていなかった。
玄関の前にたくさん置いてある鉢植えに水遣りをしていた母がびっくりしてわたしを迎えた。
「電話してくれたらいいのに」
仏壇のある居間で炬燵に入っているわたしに、母がお茶と切ったカステラを持ってきた。わたしは炬燵の中にいる三毛猫のキヌと遊んでいた。
「びっくりさせようと思ってさ」
わたしはお茶を一口飲んだ。キヌが母のほうに行った。母もキヌを抱きながら炬燵に入った。キヌは炬燵の中にもぐった。
炬燵とお茶は暖かくて冷え切ったからだを温めてくれた。少しばかり百合子の話や世間話をした。
「なに、で、どうしたの。急に来るなんて」
「転勤になりそうなの」
「あら、そうなの。どこに」
「赤木町」
「あら、遠くだね」
「そうなのよ。支店長になるんだって。どうしよう」
「どうしようたって、妻なんだからついていくのが当たり前だし。仕方ないさね」
「でもわたし、行きたくないの」
「支店長さんの妻だよ。色々しなきゃいけないことがあるし、あんた、何言ってんの。おめでたいことじゃないか」
母はわたしの持ってきたカステラを食べお茶を飲んだ。
「そうだよね。でもさ。浮気してるみたいだし」
「政人さんが?まさか」
「本当」
母は黙々とカステラを食べた。
「結婚生活ってそんなもん?お父さんも浮気したことってあるのかな」
「何言ってるの。ないと思うよ。隠してるんだったら上手な隠し方だね」
「わたし、別れようかと思うの」
「馬鹿だね。一度の浮気くらいで」
「そうじゃないの」
「我慢も大事なんだよ。最近の子たちは我慢ができないからすぐ別れる別れるって言うけど、そう簡単に」
「でも我慢できないの」
わたしは泣き出しそうになったが必死にこらえた。わたしに好きな人ができて愛人関係になっててとは、さすがに言えなかった。ずるい自分がここにある。
「浮気だけが原因じゃないわ。もう夫婦って感じもしないの。あの人にとってわたしはただの空気よ。よく云うように。ご飯を作ってお風呂を洗って洗濯して。ただそれだけ。そんなもんかってずっと思うのよ。ずっと長いわ。数年よ。ろくな話もしないし出かけることもしない。そりゃ世間から見たら遅い結婚だから仕方のないことなのかもしれないけど。もう、わたし人形みたいな、ロボットみたいな感じなの。もう嫌になったの。死んだようなこんな生活。悲しいのよ。何もないの。虚しいだけなのよ」
「お前、一人で食べていけると思ってるの。離婚なんかして。結婚して仕事辞めてだいぶになるでしょう」
「なんでも見つけて働くわ。一日中働いてやってみるから。ね、離婚したら帰ってきてもいい?」
「そりゃ……お父さんと話し合ってみないとね。今は将棋クラブに出てるから帰ったら話してみるよ。でも嫌な時なんかはいつでも来たらいいよ。あんたの部屋もそのままだし」
「ありがと」
わたしはカステラを食べる気もせず手をつけないままお茶を飲んだ。そういえばお昼ご飯も食べていなかったことに気づいた。炬燵の中のキヌがわたしの足をひっかいたので、わたしは
「痛っ」と小さく叫んだ。母は笑いながら
「やめて、キヌ。まったく。じゃれるものが違うよ」
と炬燵の中のキヌを引っ張り出して膝の上に抱いた。キヌがゴロゴロ喉を鳴らして目を閉じていた。
いいのよ、キヌ。そう思った。わたしをもっともっと、傷つけて。罪をわたしだって犯した。夫にだって殴られたって蹴られたって当然なのだ。言い訳はできない。でも俊夫を欲しい気持ちだけは誰にも、何と罵られ言われても止めることができない。
「佐知子、でも、お前、今、思いつめてるから一時的な感情かもしれないよ。政人さんが浮気してるって本当にそうなの?」
「わかってるわ。してるのよ」
「そう……」
午後の日が翳ってきて部屋が少しばかり薄暗くなってきたので、そろそろ帰ることにした。
「ごめん。お母さん。お父さんによろしく言ってね」
「何言ってんの。大丈夫?」
「うん。ありがとう」
「いつでも帰ってきていいんだよ」
「うん。ありがと」
玄関でキヌを抱いた母が見送ってくれた。母の視線を背中に感じながらわたしは自転車をこいだ。空は青く澄んでいて、寒いけれど爽快感を感じながらも、わたしの頬を涙が流れてきた。俊夫に会いたい。視界がぼやけてきた。でも今のわたしの顔はひどいものだろうなと思い、少し躊躇したけれどやはり足が向くのは俊夫の店だった。

「あ、さっちゃん。今日は遅かったね」
と、きっと店からわたしの来るのを見てドアを開けてくれる俊夫。彼の、少しためらいがちにわたしに笑いかける顔。パンに対して情熱を持ち一生懸命にパンを作る俊夫。俊夫の店のあたたかい空間。店内でよく流しているバッハのチェロの曲。彼のお客さんに接する真摯な姿。ホテルのベッドでメンソール煙草を吸う彼の姿。たまに店の隅に置かれている仕事が終わって店の中で必ず一杯飲むというどこか外国の瓶の黒ビール。彼からのメール。彼と会う、待ち合わせの誰もいない夜の駐車場。彼との車の中での会話。彼のよく読むという、わたしの知らないドイツやスペインの小説の話。

わたしはそんな全てを失いたくない。
今のわたしの全て。
ここで生きていかれるという確信。

一瞬わたしは俊夫に何も言えず、壁際の椅子に座った。
「どうしたの?何かあった?泣いてんの?」
俊夫が心配そうにテーブルを挟んだ前の椅子に座りながら言った。
わたしは自分の作ったランチョンマットを見てようやく気持ちが落ち着き、頭を横に振りながら頬の涙を手で拭った。

 

それから数日後の金曜の午後、今春初めて春物の淡い青色のコートを着てわたしは市役所に離婚届をもらいに行った。少しためらいがちなわたしの言葉に職員の淡々とした事務的な姿に安堵感を覚え、離婚届をバッグに入れて市役所を後にした。いつも通る道の街路樹に小さな芽が出ているのに気がついた。

その夜、キッチンのテーブルで離婚届の自分の名前を書く箇所にサインをして印鑑を押した。夫は土・日は今後の打ち合わせがあるとかで赤木町に出張していていなかった。夫は明日の夜に戻るだろう。今夜、俊夫に会いに行こうと思えばいけたのだったが、わたしはそうしなかった。俊夫の店は日曜が休みだった。メールが何通かきていて、わたしは返信した。今朝会った時、彼に離婚するつもりだとは話さずメールでもしていなかった。
わたしはクローゼットを開けて自分の服をとりあえず着そうなものを数枚と、下着などと一緒に自分の旅行カバンに畳んで入れ、細々とした化粧品類をポーチに詰めバッグに入れ、洋裁道具と生地類を大きな紙袋に入れた。それがすむと、マンション中を掃除しはじめた。寒いけれど、ヒーターなどもかけず掃除機をかけキッチンの床まで拭いた。去年の暮れに大掃除で綺麗に磨き上げていたので割合時間がかからなかった。それが終わる頃はもう真夜中だった。
俊夫はもうそろそろ起きる時間かもしれない。
わたしはバスタブに湯を入れている間、窓を開けて星空を眺めた。欠けた月が昇っていて冴え冴えとした空気の澄んだ夜だった。
熱い湯に浸かりながらわたしは自分の体を眺めながらほほえんだ。自然に笑いがこみ上げてくるのだ。やっと一人になれる。これからのわたし。これからのわたしをとりまく世界。これだけはわかっている。絶対に後悔などしない。

風呂から出てラジオをつけた。ラジオから外国の女性の歌うスローな曲が流れてきた。なんていう曲だろう。これからしようとしていることに何か背中を押してくれるような歌だ。悲しそうだけど悲しくない。自分が心地よくて人にも歌っていて余裕さえ感じさせる。そんな気がした。
バスローブを着たまま寝室の鏡台で旅行カバンの中のポーチを取り出して少しばかり化粧をした。化粧を終え、セーターを着てラジオのスイッチを消した。寝室の明かりのスイッチを消す前に、一瞬寝室を見渡し、スイッチを押し照明を消した。ドアを閉め、キッチンへ向かった。昔持っていたレターパッドを小物などを入れている戸棚から引っ張りだした。白いはずの用紙が少し黄色くなっていたがかまわなかった。夫に手紙を書いた。書き終わると、それを離婚届の入った封筒の上に置き、いつも使っている桜の花びらの形をした箸置きを重しに載せた。
食器棚の奥に隠しておいた海苔の筒から数枚入っている千円札を取り出し、自分の作ったリネンの財布に入れた。入れながら、こんな財布なんかを数個作って売れば少しばかりお金を稼ぐことができるかもしれない。そうすれば一人で生きていけるかもしれない。俊夫のように、わたしも何かを作って。


わたしは旅行カバンと洋裁道具の入った紙袋を持ちショルダーバッグを肩にかけ、部屋の照明を消した。玄関で少しばかり迷ったが、一番好きな靴を履いていくことにした。夜中はまだ寒く、いつも着ているフラノのコートを身につけて、玄関の明かりを消し、ドアに鍵をかけた。早朝だけどまだ暗い夜道をわたしは荷物を持ち、ゆっくりと歩いた。空には先ほどとは少し下に、まだ欠けた月が輝いている。人は一人として通らない。
ショルダーバッグの中にある携帯電話を取り出し、俊夫に電話をかけた。きっともう仕事をしているだろう。
「さっちゃん!どした!」
しばらくしてから焦った声で俊夫が出た。
「こんな朝早くにごめんなさい。仕事中でしょう?大丈夫?」
「大丈夫だけど、びっくりした」
「あはは、ごめんね。朝早くに。わたしね、出ることにしたの」
「えっ。出るって」
「離婚することにしたの。今、家、出てきた」
「え」
「あ、だからと言って別にあなたのとこに行こうって思ってるわけじゃなくてね。それにあなたのせいで別れるわけじゃないから気にしないで。実はね、前から夫も浮気をしているのよ。それにまあ、色々あって」
「もう!馬鹿だな!何一人で考えてばかりいるんだよ。相談しなよ!」
俊夫は本気で怒っているようだった。
「今、どこ!」
「え?まだマンション、出たばかりのとこよ。実家に帰るわ」
「今行くから」
「何言ってんの。仕事しなきゃ」
「迎えに行くから」
「だめよ」
「すぐだよ。すぐ行くから、歩いてて。こっちに向かってて。俺、さっちゃんが来てくれたらすぐ仕事すっから大丈夫」
「あ……」
ありがとう、でも、と言いかけたが、俊夫は既に電話を切っていた。両親の家に行く方向の道と、俊夫の店のほうに行く道に別れる交差点で、わたしは少し立ち止まった。空を見上げると暗い空に月があった。思い切って俊夫の店のほうに向かって歩き始めた。しばらく歩いていると向こうから俊夫のものらしき車が走ってきて、キキッとブレーキをかけて停まり、俊夫が
「乗って。さっちゃん」
とウィンドウを開けて言った。わたしは通りを渡り車に乗った。
「もう、何やってんだよ。何もこんな夜中に出なくてもいいじゃんか」
車を飛ばして運転しながら俊夫が前を向いたまま言った。カーラジオがついていて、わたしがさっき聴いていた局だった。
「今じゃないとできないって思ったの。荷物、後ろに置いてもいい?」
わたしが言うと俊夫はハンドルを握ったまま、わたしから片手で荷物を受け取り後部座席に置いた。
「いいの?本当に」
「いいのよ。決めたの。色々悩んだんだけど、決めたわ」
俊夫の店に着くまでわたしは黙っていた。俊夫も黙って運転した。ラジオ局から古い日本の歌が流れていた。数分で俊夫の店に着いた。
「本当、わたしたち近くに住んでたのね」
俊夫の車が店の前にある駐車場に停まる頃、わたしは言った。俊夫は車を停めながら
「そういえばそうだな」
とつぶやくように言った。
「ね、わたし、あなたがパンを全部焼き終わったら、実家に帰るわ。いいかな。それで」
「ここにずっといればいいよ」
「だめよ。そういうわけにはいかないわ。ちゃんとして、あなたとつきあいたいの。もう一度」
「そう」
わたしはまだ助手席から動こうとしていなかった。俊夫がわたしを自分のほうに抱き寄せた。俊夫の体に手をまわし胸にどうしようもない痛みを感じながらわたしは言わずにはいられなかった。
「わたし、あなたが好き」
「俺も。ごめん。何も言ってなくて。今まで」
「パン、作らなきゃ」
「ああ、作るよ。作るにきまってるだろ」
そう言いながらも俊夫はわたしをきつく抱き、離そうとしなかった。
車のウィンドウの向こうの空は既に濃い青紫色で覆われていて、傾きかけた月が煌々と輝いていた。

 

 

 

 

 

 

* 残んの月(のこんのつき)・・・・・明け方、空に残っている月。「残りの月」が変化したもの。「のこる月」「残月」「有明の月」などともいう。浄瑠璃・最明寺殿百人上臈(1699頃)道行「とりどり色しなを わけて見せたる雪の空 のこんの月は浮かめども」                      

「美しい日本語の辞典」(小学館)より


 

 

May 6  2009

 

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