天国という言葉の孤独

HOME       Story

モーツァルト ピアノソナタ 第8番イ短調第三楽章

「……風ね。いつもわたしの前にある。ここでも」

サラはつぶやきながら煙草をくわえてバックの中の何かを捜している。僕はライターをサラに差し出しサラは煙草に火をつける。ライターを僕に返しながら微笑む。

「ありがとう」

サラの言葉はまるで彼女の言う風のように軽い。
この国の湿度のない風のようだ。気候は彼女を生み出し、おそらく彼女はこの国でしか生きていけない。彼女は僕の国、日本では息をすることすらできないのではないか、と想像する。

サラと僕は旅をしている途中だった。気ままな旅だった。
気に入った町で汽車を降り、そこに泊まる。今いるのは小さな田舎町だった。古そうな石畳の町に夕日が落ち、教会の鐘が鳴っていた。
僕達は別に町の散策をしようとはせず、こじんまりしたホテルにチェックインをして、街のカフェに入った。僕はビールを、サラは赤ワインを注文していた。

「風と言ったね」

僕は言う。

「ええ。風が、ほら、わたしの今のテーマなのよ。どうしても」

サラは赤ワインをほんの少し飲む。飲むというより唇をつける、だけだ。窓から夕日を眺めている。

「もうすぐあなたは東京に帰るのね」

サラは別に悲しそうではない。それはわかっている。ただ言葉を探してみればそういった話になるだけだ。

サラは詩人であり作家だった。
本屋で自作の詩集を朗読したり、普段は本を書いたりしている。

ある晩、僕は本屋で詩を朗読するサラを見た。彼女のうつむきかげんに詩を淡々と読む姿が気に入って、僕は何度かその本屋の「詩の朗読の夕べ」とやらに参加した。西洋人ばかりの中に東洋人の黒髪は目立ち、サラが話しかけてきた。いつもあなたは来て下さっているのね。中国から来たんですか?僕は笑いながら、いいえ、日本です、と答えた。サラは赤くなりながら、あら、ごめんなさい、わたしたちヨーロピアンには東洋人が皆一緒のように見えてしまって、と謝り、僕に詩集をくれた。
それが出会いだった。

サラの赤ワインはなかなか減らない。僕は2杯目のビールを注文した。
休暇はもうじき終わる。この国での仕事は終わり、休暇の後は日本に帰るだけだった。

「わたしね。この街に住んだことがあるのよ」

サラはぽつりぽつりと話し出す。やはり風のような、ささやきの声で。

ピアノの教師をしていた頃ね。まだ若かったの。子供たちにピアノを教えながら、暮らしていたけど都会に出ていきたかった。詩集もまだ出していなかった。その時、ボーイフレンドがいたけど、結婚している人だったから、気楽だったわ。変?本気になりたくなかったのよ。彼には妻がいて、小さな子供もいたわ。女の子で、わたしがピアノを教えていたの。だけど、彼は段々本気になってきたのね。妻と別れてわたしと暮らすって言いはじめた。彼がわたしにプロポーズした次の日、わたしはこの街を離れてミラノへ行った。荷物は全部置いて。ピアノもやめるつもりで。友人に持っていたレコードもCDも全部あげてしまって。でも……。

サラはまた煙草をくわえた。僕は彼女の煙草に火をつけた。

「ありがとう。でもね、グールドのピアノ曲のCDだけは持って出たの。カセットにとった彼の演奏を聴きながら汽車に揺られていたわ」

「逃げたの?その彼から」

「そうかもしれない。いい人だった。けれど、だめだった。縛られるのは好きじゃないの」

僕はビールをぐい、と飲んだ。

「ケンイチ、あなたはわたしを縛らないから、好きよ」

「僕はそんな君が好きだからしょうがない。そんな君の詩が好きだ」

サラは笑いながらワインを飲む。

「モーツァルトのソナタ、8番って知ってる?」

「知らないな」

「その3楽章を聴いてたら、これがわたしの道なのね、と思えてきたのよ。その晩。もう仕方のないほどのわたしのスタイル」

「汽車に乗っていた時?」

「そう。風なのよね。さっきも言ったけど、わたしのテーマ。風のような曲よ。今度聴いてみて」

「わかった」

♪♪♪

 

東京に帰り、僕は何度かサラに電話をかけてみた。だが、電話の嫌いな彼女と話せるのは稀だった。一度、手紙がきた。僕も東京タワーのポストカードを送った。

会社帰りにグールドのCDを買った夜中、僕はサラに電話した。めずらしく彼女は電話に出た。
僕は例のモーツァルトの曲を聴いたよ、と言ってみた。

「どうだった?」

「君の曲っていうのがわかる。風が流れているようだ。風が行ったり来たり。今も聴いているよ」

「ああ、聴こえるわ。そうでしょう?わたしの曲でしょう?」

彼女は嬉しそうに笑っていた。一瞬、彼女と一緒に歩いたミラノの町が目に浮かんだ。

「ミラノはどうだい?もう一ヶ月も経ったんだな」

「雨よ。今日はずっと書いていたの。疲れているけれど、気持ちのいい日だわ。東京はどう?」

「すっかり秋になっているよ。街路樹はもう裸も同然だ。葉が落ちてね。また……」

「また?」

「会いに行ってもいいかな。サラに」

サラは笑いながら

「いいけど、仕事は?忙しいんでしょう。日本人ですもの」

「ああ、だけど一週間だったら休めるし。来月、行くよ。いいかな」

サラは相変わらず笑いながら、

「いいわよ」

と言った。

「縛るのは僕もきらいだったんだけど、僕のほうがサラに縛られてしまったな」

僕はそう言うと、サラは

「馬鹿ね」

と言って、やはり風のように笑っていた。

「待ってる」

ささやくようなその声で、彼女は言った。 

 

 

 

天国という言葉の孤独

 

どこまで行ったら明日があると思う?

きみはそう言って波の中に入っていった。

この海の終わるところに明日はあるの?

きみの足は揺れる水の中で遊ぶ。

わたし人魚だったのよ。昔

きみは振り返ってぼくを見る。

寒くないのかな

寒いわ

ならどうしてそっちへ行くんだ

海の中が好きだからよ

 

春の海。午後2時。きみの水色のセーターが青と混ざりあう。空も青い。

わたし、もう……

きみの声が聞こえなくなる。

なんだって?

ぼくは叫ぶ。きみの声は聞こえない。きみは海の中へ帰っていった。やがてぼくはひとりになる。

浜辺にひとり残されて打ち寄せる波音をきいている。きみの声が聞こえはしないかと思いながら、ずっと浜辺にたたずんでいる。

 

そんな夢をみた。
今頃、きっと海の中で言葉を捜して何かを書き留めているんだろう。ぼんやりした頭でそんなことを考える。きみは遠い。


ばかだな。

今頃、サラはどうしているだろう。

午前3時。ぼくはベッドから出てミラノのサラの家に電話をかけてみる。

だがサラは出ない。昨日も出なかった。おとといも出なかった。ぼくはため息をついて電話を置く。そして煙草に火をつける。

しょせん無理なんだ。遠距離にしてもミラノと東京じゃ距離がありすぎる。飛行機で成田から12時間。いったい距離にするとどのくらいあるんだろう。本棚から古ぼけた地図帳を取り出したその時、電話のベルが鳴った。

「もしもし」

「ケンイチ?」

サラだった!風のような彼女の声にぼくはすっかり目が覚めた。

「もしかして今電話した?」

「したよ」

「やっぱり?今ね」

「ひさしぶりだね」

「そうね。今ね……」

「元気だった?」

「ええ。でね」

「サラ、ぼくたち」

「何?よく聞こえない」

「サラ?聞こえる?」

「いいえ、あのねチ……」

電話は切れた。

ぼくは切れた電話を置きながら電話を待ったが、かかってこなかった。
サラとぼくをとりまく全てがぼくたち二人を妨害しているような気がしてきた。やはり無理なのかな。だが、ぼくはサラが好きだった。彼女を離したくなかったし、もちろん他の男とサラが一緒に歩くなど想像するだけでいやだった。ぼくはもう一度、サラに電話をかけてみた。

今度はサラはすぐに出た。

「切れたね」

「ええ、そうね。国際電話だからかしら。元気?」

今度は電話線の調子は良さそうだった。ぼくは安堵のため息をついた。

「まあまあさ。明日は土曜だから今日、ちょっと飲んだんだ」

「あいかわらずビール?」

「ああ」

「ミラノはそろそろ春になってるわ。東京はどう?」

「そうだな。気温は上がってる」

「明日ね。そっちに行くわ。東京に」

「え」

え!?

ぼくはびっくりした。サラは笑いながら

「びっくりした?会いたいの。今日チケットを旅行店で買ってきたの。席がとれたのよ。迎えにきて」

「もちろん!」

「うれしい?」

「もちろん。きみは海の中へ消えていったような気がしてたから、とてもうれしい」

「え?」

ぼくはサラが海の中へ消えていく夢をみたのだと話した。

「そうなの。海の中へ。わたしの最近書いたものをあなたが読んだ訳じゃないし。不思議ね。この前、人魚のおはなしを書いたのよ。子供向けの。おもしろいわね」

「そうなんだ。不思議だね」

「でもうれしいわ。住んでいるところは遠くても気持ちが通じた気がするわ」

「そうだな」

確かに。

♪♪♪

 

ぼくはサラを成田空港に迎えに行った。午後2時頃到着の航空便で、彼女は日本にやってきた。アライバルのドアが開いてサラがぼくを見つけるまで、夢じゃなく本当にサラが日本にやってくるのかと疑っていたが、ドアは開いた。サラは美しい金髪を揺らして周りを見渡し、ぼくを見つけ、笑って手を振った。

そう。やはり風のように。

午後2時。夢でみた、あの時間にサラはぼくの腕の中にいた。

「うれしいわ。ケンイチ」

ぼくたちは人目など気にせず、抱き合った。これは夢じゃなかった。サラはぼくの腕の中にいる。サラの髪がぼくの頬にあたっている。

「サラ。ぼくもうれしいよ。天国にいるみたいだ」

サラはぼくに抱きかかったまま顔を上げぼくを見た。

「いいえ。ここは天国じゃないわ。天国というのは孤独なところよ。ここは日本で、ほんとうに湿度が違うわ。空港に入っただけでわかったわ。水の匂いがするわ。ケンイチ、あなたが生まれたところなのね」

ぼくはサラをますます抱きしめた。

天国でも東京でもミラノでも、どこででも、ぼくの気持ちはサラにある。

 

 

 

 

 

April 1 2009

Based written in August 2001 and March 2002

 

 

HOME      Story