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夕方、台所にいたわたしは店のチャイムが鳴ったので慌てて店に出た。店にいない時ドアが開いたらチャイムが鳴るしかけだ。

「いらっしゃいま……」と言いつつ腰に巻いたエプロンで手を拭きながら、目の前にカーキ色のダウンジャケットを着た流ちゃんが玄関に立っていたのでびっくりした。

「流ちゃんじゃん!」

「やっ。元気してる?エリカ」

「びっくりしたあ!どしたの」

「なんか、あったかいとこに来たくなってな。昨日まで東京駅の近くで仕事してたんだけどそれが終わってさ、久しぶりに汽車の旅もしたかったし。やっぱ、いいな。電車の旅は。ここに来るまで日本を横断した気になったぜ」

「どうせここは日本の西の端ですからね」

「そういう意味じゃない。山を見ることができたし。東京を過ぎてしばらくすると山ばかりになって、四国に入るとまさに緑の洪水。それに終着駅ってのが好きなんだ、俺。鷺洲駅もこじんまりしてていいな」

「なんでまた、急に。メールでも電話でもしてくれたらいいのに。駅まで迎えに行ったのに」

とは言ったものの、流ちゃんが突然やってくるのは大学を卒業してからこれで3度目だった。流ちゃんは大学時代の友達で、こんな風に旅ばかりしていた。彼の腕だったらどんなデザイン事務所や企業でも雇ってくれはずなのだが、彼はフリーターをしながら絵を描きポストカードを作って売ったり、たまに個展を開いたり旅行をしていた。

「それはさ、こんな感じに驚くエリカの顔が見たいからさ」

にっと笑って言う流ちゃんはやっぱり相変わらずの流ちゃんだった。昔からそのままの。

「バッグパックしょってる人、久しぶりに見たよ」

流ちゃんは青い古ぼけたバッグパックを背中に乗せていた。

「相変わらずシケてんな。客いないの?おやっさんは?」と酒の置かれた棚の向こうの裏のほうを覗いた。

「今、配達行ってる」

「そっか。うまそうな匂いだな。夕ごはん?」

「そうよ。食べてきなよ。でも、泊まるのはどっかホテルはとりなよ。」

流ちゃんはにやっと笑って言った。

「わかってるよ。おやっさんがいるからな。百合ちゃんは大事な跡取り娘だからな。前に泊まった、あの海が見える民宿に電話はしておいたんだ」

「あ、さくら、ね。この近くじゃん。海はどこからでも見えるわよ。この町の高いとこだったら」

「まあな。そうだなあ。メニューで決めるかな。エリカの腕前はなー。この前はひどかったしな。晩メシ何?」

「この前はまだお料理に目覚めてなかったのよ。たいしたもんないよ。肉じゃがでしょ、アジのお刺身。揚げ出し豆腐。菜の花の酢の物。たまねぎとワカメのお味噌汁」

「うーむ。聞くとうまそうだな。前よりは上達したな。前は一品くらいしかなかったよな、確か」

「あら、失礼ねえ。お刺身はもらったの。お客さんに」

「鷺洲の刺身、うまいもんなっ。食ってく!」

「でしょうね」

「おっ」

ビールを並べて入れている冷蔵庫を見て流ちゃんが叫んだ。

「ギネスがあるじゃん。前なかったよな」

「うん、去年の夏から入れたの。お客さんが欲しいっていう人がいて。あ、その人、油絵描いてるんだよ。達ちゃんていう人。美大出てんのよ」

「へえ。恋人?」

「あはは、まさか。彼女がいるよ」

「エリカ、彼氏いないの、まだ」

「いないわよ」

あたしは奥に引っ込んだ。流ちゃんは勝手知ったるって感じでついてきた。

「なーんだ。つまらん。彼氏のひとりくらいできそうなのにな、エリカは」

「悪かったわね。流ちゃんとは違うもん。いったい何人いるのよ、今、彼女」

わたしは肉じゃがが乗っているコンロの火を点け冷蔵庫からお刺身を出した。

「ええっと、そうだな。丸の内のOLやってるのも最近できただろ?」

「へええ。丸の内のOL……」

わたしはおたまを手に持ってそれを流ちゃんに向けて言った。

「だめだめ、もう複数はだめだよ。大人にならないと。大学ン時も苦労したでしょう」

「わかってるけどさー。皆、かわいいし。割と長くつきあってるのは花屋やってる子、知ってるだろ。由美子。それと、商社の康子だろ~、えっと」

「もう!よく体持つわね」

「俺もそう思う」

流ちゃんの本名は平賀流平という。油絵などに書くサインには、R H。 なんだか血液のRHマイナスとかRHプラスみたいだねと言ったのは誰だったかな。彼の彼女の一人だったかな。大学の頃からいつも彼には彼女がいた。しかも複数。まったく懲りないヤツ。

わたしは流ちゃんはどうしても恋愛の対象には見られないし、流ちゃんもそうに違いない。だからこうして友達でいられる、のだと思う。

流ちゃんに手を洗ってもらって一緒に料理の盛り付けをしている時、父が帰ってきた。父は流ちゃんの顔を見てもあまり驚かなかった。

「おお、流平くんじゃないか。また来たの」

「おやっさん、お久しぶりです」

一応流ちゃんは頭を下げた。流ちゃんはわたしの父をいつの頃から「おやっさん」と呼ぶようになった。

「元気そうだね。絵、描いてる」

「はい。描いてます」

二人とも嬉しそうだ。父も絵を描く。

父は店を閉め、店からビールをたくさん持ってきて料理の並んだテーブルに置き

「ささ、いくらでも飲んで。こいつの料理じゃうまくないかもしれないけど」

などと言い、瓶ビールのふたを開けコップに注いだ。確かにうちは酒屋なんだからいくらでもあるんだけどさ。
盛り付けをした料理がテーブルの上に並び終わり、わたしはご飯をお茶碗についでいた。TVでは7時のニュースをやっていた。

「いえ、料理、うまくなったっすねえ。びっくりしました。いい人でもできたんじゃないかって言ってたんです」
と流ちゃん。

「やー、それはなかなかねえ。いい人いたらいいんだけどねえ」
と父。

「そうっすねえ、残念っすね」
と流ちゃんもビールを飲んだ。

わたしは黙々とお刺身を食べビールを飲んだ。

好きなひとくらいいるんですからね。

そう言いたかった。

でも、彼にはあれから会っていなかった。

「うまっ、この肉じゃが。ほんと上手くなったなあ」
流ちゃんはばくばく食べている。気持ちいいくらい。たくさん食べる男の人が好きだ。いつも父に食事を作っても何も言わないのでちょっと新鮮だ。

「ありがとう。どんどん食べて。いっぱい作ったから」
わたしは言った。

「母さんにも持ってってやれよ。エリカ」

と父が言い、

「そのつもりでたくさん作ってあるの」

とわたしは言った。流ちゃんが

「おかあさん、まだ入院してんの」

と聞いた。

「うん」

わたしはうなずいた。

「大変っすね。長いっすね」


「ああ。そうだねえ。ま、病院入ってたほうが安心だからね」
父はビールをぐぐっと飲んだ。

 父は彼が嫌いではない。というのもわたしは密かに思うんだけれど、父は流ちゃんのようになりたかったんじゃないかなってことだ。自由に絵を描いている彼に自分はなれなかった夢を託しているんじゃないかと思う。父も高校時代から絵を描き今も描く。だがわたしの絵は父は気に入らないのだ。いつもねちねちと小言を言う。ここはこんな風に描くもんじゃないだとか、大学で何をやってきたんだ、とか。よく喧嘩をして奈菜にわたしはぼやくのだ。筆を持つ気さえしなくなるのよね。うるさいオヤジ!って。

 

「自由に描けばいいんだよ。絵なんて」

流ちゃんはウィスキーのロックを飲みながら言った。

父が酔って炬燵で眠ってしまったのをそのままに、わたしは流ちゃんと『プルート』に来ていた。帰ったら洗い物をしなきゃいけない。いやだなあ。
『プルート』は割合混んでいてわたしたちはカウンターのスツールに座っていた。そういえば週末だった。わたしはあまり曜日のない仕事をしているので曜日がわからなくなることがある。そういえば金曜なので飲み屋さんが忙しくて父は午後遅く配達に追われたんだっけ。わたしには曜日も月日もそのまま過ぎていき、日常の向こうの将来の希望など何もない。わたしはブラディーマリーを飲んでいた。例の彼はやはりいない。そういえばあれから何度か会った奈菜は、わたしが彼にメルアドを聞いたりしたことをからかいはしなかった。

 

「そうだよね。だけど時々怖くなる」

「なんに?」

「ここでずっと終わるかもしれないってことに」

ブラディマリーが効いてきた。家でビールを結構飲んだし。流れているジャズが心地いい。

「そんなわけないじゃん。エリカの絵が」

「別にいいの。お世辞言わないで」

「俺、お世辞言うの苦手なの知ってるだろ」

「うん。ごめん。ありがと。最近暗くってさ」

「描いてる?」

流ちゃんがウィスキーを飲み干した。

「秋からの描きかけのがあるの。でも今年の秋に出すのもまだ手つけてない。ほら、前にメールしたでしょ。グループ展みたいなのするって」

「描けよ。二科展でも何でも持ってってやるぜ」

「ありがとう」


 

なんで流ちゃんがわたしの彼氏じゃないんだろ。流ちゃんになら本音を言えるし絵の話もできる。それに優しい。世の中うまくいかない。

 

「あっ電話しないといかん」

『プルート』の壁にかかった木のフクロウの時計を見て流ちゃんは叫んだ。午前12時だった。

「彼女?」

「そそ。メールでいい娘もいるけどさ、電話じゃないとヤダって娘もいてさ」

「はいはい」

まったくこういうところはマメなんだよね。昔から。


「ちょっと外出てくるわ。ウィスキー注文しといてくれる?同じので」

「わかった。行ってらっしゃい」

流ちゃんは外に出て行った。わたしはため息をついて、カウンターの向こうで女性客と楽しそうに話しているマスターに
「おかわり、お願い。二人とも」
グラスをあげて声をかけた。
 

ちょうどその時、ドアが開いてマスターが「お、いらっしゃい」と言っていた。

わたしはまたため息をついて目の前の並んだフォアローゼスのバーボンやらチェリー酒やら名前の知らないたくさんの洋酒を眺めながら『イン・ア・センチメンタル・ムード』を聴いていた。コルトレーンだ。どうしてこんな古い曲を知っているかというと学生の頃にジャズミュージシャン志望の男とつきあったことがあったからだ。美大生の半ばの頃だ。2年生の時だったかな。専攻を油絵に決めたばかりの頃だった気がする。世田谷の砧公園で彼はアルトサックスの練習をしていた。わたしは彼の練習につきあってよく夜、サックスが夜空、広い公園の人気のない空間に響き渡るのを聴いていた。イン・ア・センチメンタル・ムード。何度も何度も同じパートを練習するのですっかり覚えてしまった。彼の姿をよくスケッチしたなあ。世田谷美術館で一緒に見たワイエス展。絵の前で長い間立ち止まるわたしを置いて彼は先に美術館を出、公園でひとり練習して待っていたっけ。懐かしいな。彼はジャズミュージシャンになったのかしら。


今、まさにセンチメンタルだ。

そんなことを考えていると隣の流ちゃんの席に誰か座った。

「あの……」
ここは友達がいるんです、と言おうとして横を向いたわたしはびっくりした。

「こんばんは。覚えてる?エリカさん」
そう言った彼はまた会いたいと思っていた人、孝一さんだった。


まったく今日は驚いてばかりいる。

 

to be continued


Taken this photo by nao-san. Thanks!

 

March 29 2009
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