確かに眠る前に猫になりたいと思った気がする。
彼の家の猫タマになって彼のそばにいたいと思ったことがあるので死ぬ前に猫になりたいと、意識が遠ざかる前に思ったんじゃないかな。
ベッドで洗い立てのふかふかのシーツに包まれて目覚めたあたしのピンクのネグリジェの袖から出た手は白と茶色の縞々の毛皮と肉球だった。
(死ぬときは綺麗でいようと思ったので、新しいネグリジェを買った。それに誰が見ても片付いた清潔な部屋で死んでいるところを発見されたいので部屋も一週間かけて掃除した)
ああ、ついに死んだのね……
ピンク色の肉球をまじまじと見てそう思った。
「やっと開放されるんだ。あたし」
今度は声に出してみた。みゃあみゃああ、という音が耳に入った。あたしの声?
勿論、両手は白い毛の長い猫らしい手をしていて、あたしは思わず手を合わせた。人間のときのようにお祈りをするように手を握り合わすことはできず手はパーとパーで合わさった。
「……」
猫。
猫?!
ばさっとベッドから起きだしたが、ネグリジェがからまってうまく降りられなかった。致死量の睡眠薬を飲んだはずなのに猫になるだけ?なになになに?あたし死んだはずなのに?ネグリジェがからまってて動けない!あのインチキ医者?あれは変身薬だったの?
「ぎゃーんにゃんにゃんんあーーーーーーーー」
あたしはネグリジェを爪で裂いてようやくネグリジェの束縛から逃れてベッドから降りてピカピカのフローリングの床を歩いた。タタタ、と爽快な軽い足音がした。19850円もしたキッドブルーのネグリジェはボロボロになっていた。あたしはそれをまた爪をしゃきーんと出し更にボロボロにした。そうしたい気がしたので。
そしてちょっと、ぐーんと、体を伸ばしてみた。伸びたくなったので。
からだを見渡すと、白地と茶色地の縞々のある尻尾のふさふさした毛足の長い猫だった。
ふーん。
あたし、割とかわいいじゃん。
だよねー、と言ってみた。ニャーンと聞こえた。
毛づくろいってのをしてみた。これもしたくなったので。
うーん、気持ちいいわ。脚を伸ばしてみた。ぐーんと伸びた。おお。あたしまるでバレリーナだわ。すごーい。
彼は猫が好きだった。
あたしは別に彼とつきあうまで猫に触れたこともなかったし飼ったことさえなかったが彼は小さい頃から家に猫がいたようで部類の猫好きだった。
ちょっと彼に会いに行ってみようかな。
何て言うだろう。あたしのこと。
立ち上がってまた伸びをして白いクロスの壁をバリバリと音をたてて爪を研いだ。
シャキーン。うーん。気持ちいい。爪を出すってこんなに気持ちいいことだったんだわ。たまに彼んちの猫にジーンズで爪を研がれたりしてて痛い思いをしたものだった。
あたしも彼のジーンズでやってみたい。
それに彼の新しい彼女、いえ、嫁になるやつにも爪をたててやりたい。バリバリと。
そう決心したあたしは部屋を出ることにした。
「……」
だが、猫の手ではドアノブを回すことができないのだった。
ドアの前に座り込んだあたしは、大きな声で鳴いてみた。
「にゃあんにゃあんにゃあんにゃあんんんんんん(出して誰か出して誰か~って言った)」
ずっと鳴いてて鳴き疲れ、待って待って数時間後、ほとんど眠っていた頃、あたしの携帯電話が鳴った。あたしは飛んでって携帯電話の置かれているベッドサイドテーブルに飛び乗り、電話に出た。電話のキーボタンを押すことはできた!やったにゃん!
「もしもし?ユリア?」
双子の姉からだった。
「もしもし、アリサ?早く来てドアを開けて」
と言ったのだが
「あれ?ユリア?猫飼い始めたの?ユリア?」
「んんん?違う、あたしユリア」
「ユリア?おかしいわね……間違えたかな」
そう言ってアリサは電話を切った。
ああ。もう!じれったい!
また電話が鳴ってあたしは電話に出たけれど、アリサは再び切った。
仕方がないので、またドアの前で鳴いてみた。
しばらくするとドアの向こう側でドアノブを回すガチャガチャという音がした。
「おかしいわね、猫お断りのマンションだってわかってるはずなんですけど」とアリサの声が聞こえた。
「隣の奥さんからこちらで猫の声がうるさいって苦情がきたんですけど、今朝と、さっき」と管理人のおばさんの声だった。
ドアが開いた!
あたしは、さっと彼女たちの足をくぐりぬけて外に出た。
うーん、すごい。疾風のごとく走ってるわ。あたし。
「あら、猫が」というアリサの声と「すごく片付いてますね」という管理人さんの声が後ろで聞こえた。
あたしはエレベーターは使わず階段を走って降り、自動ドアから外に出た。
外はものすごく快晴だった。少し暮れかかっているけれど。
あの日も快晴だった。
彼に結婚することになった、と聞いたとき、あたしは目の前が真っ暗になった気がした。
じつは……と切り出す彼を、ぼおっとした視界の中、やはりぼおっとした意識の中で見ていた。
ランチタイムの会社にある食堂でのことだった。あたしたちは同期で入った会社の同僚だった。
このひとは……何もランチタイムの少ない時間で、そんなハナシをしなくてもいいだろうに、しかも誰かに聞かれるかもしれないと思わないのだろうか、などと思っていた。少し意識が回復して食堂の窓の外に目をやるとビルの谷間の空の向こうは雲一つない青い空だった。
あたしは食べかけのオムライスに手をつけることができなくなった。テーブルを挟んで目の前の彼は小さな声で事情を話した。
部長の村田さんの娘さんに会ったのは数ヶ月前で、酔った部長を家まで送って行った時に会った。それから部長の家に招かれて(あたしには初耳だった)部長の奥さんにも彼は気に入られ、娘にも気に入られ、どうだね、大野くん、娘の婿になってもらえないだろうか、娘も乗り気だし……。だから、ごめん。もう決まって……。結納はもうすぐなんだ。田舎から僕の親も出てくることになって……。
あたしは泣きもしなかった。
あまりに一方的なハナシなので呆れるばかりで、何も言えなかった。
ユリアのことは好きだけど結婚できない。
なぜ?
ようやく聞いてみた。ランチタイムが終わろうとしていた。
うまく言えないけれど……僕はこの会社にずっといるつもりだし……。僕は田舎から出てきてるからコネなんかもないし。大きくなるには部長の力が必要なんだ。
あたしは何も言えなかった。
でもユリアは離したくない。からだ、すごく合うし。結婚してもつきあってくれる?
わからないわ。
あたしはつぶやいてオムライスを残したまま、席を立った。オムライスを彼にぶつければよかったのだ。今ならそうする。
席を立って、あたしは聞いた。
結納はいつ?
来月の第一日曜。
あたしは食堂を出て、自分の事務所のあるフロアまでエレベーターで行き、まっすぐトイレに入った。鏡の前で女子社員たちが歯を磨いていた。あたしは彼女たちの後ろを幽霊のように通り過ぎ空いたトイレに入った。便座の上にぺたんと座り、声を殺して泣いた。
失ってみて自分がどんなに彼を愛していたかわかった。あたしはもう死んでしまうしかないと思い、そうした。そんな彼なのに、そんな彼を好きな自分がいやだったのだ。
そして、その日曜の朝にあたしは死ぬはずだった。猫になどならなかったら。
でも、あたしは猫になった。
なんだか気が楽になった。
思えばひどい男じゃない?そんなヤツは地獄に落とすしかない。勇気がわいてきた。なんたって、あたし猫だし。
あたしは彼のマンションまで急いで(たまに車や散歩中の犬が怖かったけれど)走っていき、ようやく彼のマンションの前まで来た。着いた頃には息が切れていた。植え込みがあったので、そこに座って毛づくろいをした。彼に会うには綺麗でいなきゃね。
もう夕方だった。彼の部屋は外から見える。部屋は明かりが灯っていた。あ、帰ってるんだ。あたしはマンションに帰る女性の足元についてゆき、マンションの中にもぐりこんだ。彼のマンションのドアはあたしのマンションと違い押して入るドアなのだ。
そして、その女が入ったエレベーターに乗り込んだ。彼女は5Fを押した。ラッキー。彼の部屋も5Fなのだ。
彼の部屋の前で大きな声で鳴いてみた。んみゅああああああああああああん。(開けな~~ばかやろうばかーなヤツ)
ドアの向こうで猫の声がした。「ちょっと、何言ってるねん!あんたダレ!!!!」(にゃにゃふーーーな~んんん)
「みゃん(あら、タマくん)みゃっみゃっみゃ(あたしユリア)」
「にゃんや!(ええっ)」
「うるさいなー何もう?散歩かい?タマ」と彼の声がしてドアがぱっと開いた。
狭い玄関に彼はドアを持ったまま立ち、足元にタマがいた。タマは目を丸く見開いていた。
「なーーーーーーー(ええっ?あんたユリア?あのユリア?)」
「んなっ(そうよ)」
「可愛い猫ちゃんだな。彼女?タマ」と彼が言った。
「にゃんにゃんなんなニャんな(んなわけないだろ?あんたの彼女だろ?)」
「にゃん(元、彼女よ)」
あたしは部屋に入り込んだ。彼はあたしを撫でた。やっぱりね。彼はあたしを追い出すことはしないんだ。あたし猫だし。
彼の手を振り切り、リビングルームに入り込んだ。タマがついてきた。
「あらっ猫ちゃん。かわい~。どうしたの」
甘い声がした。
やっぱり。
「んなっにゃんな(あんたが部長の娘ねっ)」
部長の娘が一緒だった。テーブルにはきっと彼女が入れたんだろう。紅茶のカップが二つあった。
「どっから来たのかな。タマの友達らしいな」
彼はあたしを抱き上げて膝に載せ、彼女の横に座った。あたしもよくここに座ったわ。彼はあたしを撫でながら
「おとなしいな。綺麗だから飼い猫だな」
と言った。
「かあいいわ~。タマもかわいいけれど」
「すっかり猫好きにさせちゃったな、カナちゃんも」
「あら、ずっと前から好きだったのよ、わたし」
部長の娘は手を伸ばしてあたしを撫でようとした。きらりと光る薬指の指輪。きっと婚約指輪だ。あたしは彼女の左手を、しゃっとひっかいた。
「あっいたっ」
「大丈夫?」
彼はあたしを放り出し、彼女の左手をとった。あたしは床に着地した際に彼女の膝に噛み付いた。残念。ジーンズは履いていなくてフリフリの2重になっているピンクのスカートを履いていて薄いベージュのストッキングを身につけていた。ふん。フリフリヒラヒラ。ストッキングが破れた。
「いた!!!」
「あ、こらっ」
と彼が叫び、あたしをつかまえようとした。
タマが「にゃああ(だめだろ、おい」と言ったがあたしはかまわなかった。
あたしはテーブルにぴょんと飛び登り、カップを倒した。紅茶がこぼれ、床にぽたぽた落ちた。
「こらっ!!」また彼が叫んだ。
あたしは気にしなかった。飛び回った。
もう部屋中を壊してやるつもりだった。
まず壁でバリバリ爪をとぎ、カーテンにしがみつき、カーテンをほとんど全部はずした。彼の携帯電話は充電されていたので充電コードを噛み切った。彼があたしをつかまえようとしてもあたしは機敏な動きでかわした。カーテン、壁、カーテン、という風に跳んだ。
タマは面白そうに尻尾を振りながらテーブルに座って見ていた。彼女は悲鳴を上げていた。
パソコンのコードも噛み切った。マウスのコードも噛んで切った。次にソファに思いっきり爪を入れて中のスポンジを出した。ソファの上に彼女のものらしいグッチのロゴのバッグがあったのでバリバリバリと爪でとぎ、ついでに齧った。
娘は悲鳴を上げていた。
「きゃー、これ高いのにぃ。彼に買ってもらったのにぃ」
彼があたしを追いかけるのをやめて
「彼?」
と彼女のほうを振り向いた。
彼女は手をさすりながら
「誕生日に買ってもらったのよ。15万するのよ」
と言った。
「彼がいるの?」
「い、いたのよ。昔の話よ」
「でも誕生日にって……」
「どうでもいいでしょ。結婚するんだし」
「でも」
二人の会話をあたしは聞きながらもベッドに飛び乗ってカバーをめちゃくちゃにした。このカバー、絶対最近買ったものに違いない。部長の娘のために。なによっこんなもんっ。いっそう、ぼろぼろにしてやった。
リビングルームを出てキッチンに行き、手に届く範囲に置かれているもの全てを床に落とした。コーヒーメーカーも落として割れた。
あっはっは。
気持ちいい~!
「あたし、もういやっ帰る!痛いわっ膝も手も」
と部長の娘が叫び、グッチのバッグをとり、だだだっとドアに向かった。
「あ、カナちゃん、待って」
彼は追いかける。あたしは彼のジーンズに飛びつき、お尻を噛んだ。
「いた~~~!」
彼は叫んだ。
ドアはパタンと閉められた。
あたしはまだ彼に噛み付いたままだった。
彼はへたへたと床に座り込んだ。あたしは彼のお尻から離れ、後ろに座った。
彼はしばらく座ったままだった。
タマが
「にゃんにゃあああ、なななな。(アンタ、やるなあ。人間にしとくにゃもったいないな)」
と言いながらやってきてあたしの横に座った。
あたしは彼の背中を見つめながら
「なっなんあんあ、にゃんああんあ(もうあたし猫だし、これがあたしの復讐なの)」
と言った。
「にゃんなああん(復讐ねえ)」
とタマはちょっと耳をかいた。
あたしはもう静かになった。
彼はあたしに振り向き
「まったく……」
と言い、ひどい部屋を見渡し、呆然としていた。
「なっ(馬鹿!)」
とあたしは一言鳴いてやった。
「お前の彼女かよ……タマ。凶暴だな、彼女」
彼が落ち込んだ声で言った。
「なっん!(ちゃうぜえ!)にゃんなああーん(ボクの彼女はもっと優しいぜ)」
とタマが言った。
「なんあんにゃんな(あんたの元、彼女よ)」
とあたしは言った。
March 20 2009