それが運命だとしても

 

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暑い作業場でオイル交換をしていたら何も考えられなくなった。
ガソリンスタンドで流している有線のアメリカのラジオ局から流れてくるワムのケアレスウイスパーが私の心を揺り動かす。
とにかく暑い。汗が作業着の下を流れる。
早く終わらしてしまわないと。
客は冷房のきいた店内でTVでも見ているんだろう。ボンネットを開けた赤いマーチは私を笑っているようだ。まだ?って。そうよ。慣れないんだから。まあ、待ってよ。

父が死んで私は大学を中退し、故郷に帰ってきた。私は小さな町の小さなガソリンスタンドなんて継ぐ気など毛頭なかったのに。せいせいして家を出て大学のある東京にいたのに。

母一人では店をやっていけない。女の娘の私には継がす気はない。
お葬式の後、親戚の人たちが集まって話していた時、店は閉めよう、という話になって私は、「あたしが継いでします」と言ってしまった。私は一人っ子だったのだ。若い私ができるわけない、と親戚一同は反対した。けれど、私はどうしても店を続けていかなくてはならない、とがんばった。

がんばって、今、後悔しながらオイル交換をしている。多額の借金と不景気。どーーーんと私の肩にある。

ようやくオイル交換が終わって若い女の客に「お待たせしました」と告げた。仕事帰りのOLさんでよく来てくれる女性だ。彼女の流行に乗ったファッションに私は少し引け目を感じる。私はオイルの付いたシャツを着て汗まみれ。

それが最後の客だった。もう夜だ。父が遅くまで店を開けていたので私もそれを習って町の他のガソリンスタンドより遅くまでやっている。よく町の組合に会に出る度にやっつけられる。私はここぞとばかり若い女の魅力でそれに立ち向かう。……疲れるけど。うちは今にもつぶれそうなんだから大目に見てよ。

従業員の林さんが帰ると、母の作った夕食を食べる。店の裏が台所だ。

夕食のカレーを食べていると、近所の修理工場のたっちゃんが来た。彼は私より2つ年上だけど、もう社長だ。お父さんのあとを継いで、私みたいに2世社長をやっている。「ガソリン、まだ入れてくれる?」「いいよ。」ガソリンスタンドには食事時もない。朝も昼も夜も。まあ、たっちゃんだから、いいけどさ。
「今日、飲みに行かん?」ガソリンを入れていると、たっちゃんが私を誘う。
「そうねえ。こんな姿でもええかなあ。」
「ああ。きれいだよ。」
「はは。そうでしょ?」
「暑かったけんなあ。今日は。外に出るより、うちでビールでも飲むか。」
「たっちゃん家で?」
「うん。連れて行こうか。」
「まだ店閉めてないから。閉めてから、行くわ。」

私とたっちゃんは中学時代から知っている。高校と大学は別々だったけど私がこの町に帰ってきてから、お互い似たような境遇なので、なんとなく、また友達になった。恋人<友達っていう図が似合うかな。

たっちゃんの家の勝手知ったる私は呼び鈴も押さず玄関を上がる。台所に行くと、たっちゃんのお母さんが枝豆をゆでていた。
「こんばんは。お邪魔します。」
「こんばんは。さやかちゃん。今日もお疲れさんやったねえ。うまくいってる?スタンド。」
私が店を継いだことは小さな町の皆が知っている。
「うん。なんとか。母と喧嘩ばかりしよる。」
「ははは、そんなもんよ。親子って。うちだってねえ。あの子がええお嫁さんを見つけるまで大変やわあ。あんた、来ない?うちのといい線、行きようがやない?」
お母さんがだだっと枝豆をザルに上げるのをぼんやり見ながら
「ええっと……。」
と戸惑っていると、たっちゃんの声がした。
「おい、さやか、来んかい。」
たっちゃんが部屋から叫んでいるのだ。
「あら、部屋で飲むが?」
「おーい。枝豆も持ってきてな。ビールもね。」
「はいはい。」お母さんが私に枝豆と冷えた缶ビールを載せたお盆を私に持たせる。
「じゃ、お願いね。ごゆっくり。」
たっちゃんのお母さんが意味ありげに私に笑いかける。もう。

とんとんと2階へ上がって勝手知ったる私は部屋のドアを開ける。
「へい、お待ち。ビールでござい。」
「おお、来た来た。飲もうぜ。」
私たちは、かんぱーい、をした。私が帰ってきてここ1年、こうして何度一緒に飲んだかなあ。


「着替えて来んでもええのに。」
たっちゃんが言う。Tシャツに着替えていたのだ。
「だって、さすがに恥ずかしいで。あのユニフォーム。汗臭いし。」
「似合うちょうで。」
「まだオイル交換慣れんでさあ。」
「そうか。お嬢さんやもんな。さやかは。」
「こんなオイルまみれのお嬢さんがいたら見てみたいわ。」
「ここにいるじゃん。」

「そんなことより、絵、見せて。この前描いているって言ってた絵。」
たっちゃんは絵描き志望で美大まで行ったのだ。大学卒業と同時に田舎に帰って家を継いだ。
「ええけど。汚い部屋やで。」
「知っちょう。」

たっちゃんの部屋の隣の部屋をアトリエらしきものにしていた。私たちはそこへビールを持って移動した。油絵の匂いがこもっていた。部屋の電気をたっちゃんがつけて、絵は私の目の前に広がる。
「うわ……。」
絵は部屋の真中のイーゼルに置いてあった。
青い海の油絵だった。海の波だけの絵だ。白い波と青い海の絵。
「たっちゃん、画家になりなよ。」
私はたっちゃんに向かって言った。たっちゃんは絵を見ながらビールを飲んで、
「いんや、俺はこの家におらんとねえ。修理工しながら絵、描くさ。気分はもう画家やけんね。」
「それで、ええが?」
「さやかも帰ってきたじゃんか。」
私もビールを飲んだ。
「あたしは、こんなすごい絵を描く才能なんてないもん。」
「小説家になりたいんだろうが。」
「うん。でも……。」
「さやかも俺も同じ。夢を追いかけても現実はこうなのさ。母ちゃんもいるし、じいちゃんもおる。妹の大学資金もいるし、さ。絵で食ってける才能なんて誰でも持っちょうけど、それを現実にするには時間がいるがやけん。」
「うん……。そうだね。」
「さやかもがんばれよ。書かないかん。まだ若いんだし。」
「…でもね。仕事、肉体労働やけん、疲れてさ。夜、書こうと思っても寝ちゃうがよね。わかっちょうがやけど。甘えてもいかんがやけど。」
言ってて不覚にも涙が出てきた。
「そうだよなあ。わかるよ。」
優しい言葉をかけないで。強がっているけれど本当は弱いんだ。
「ビールがきれたで。」
私はぽつんと言う。
「下、行って取ってくる。」
たっちゃんが下へ降りていったあと、私はぼおっとしてたっちゃんの青い海の絵を見る。

作家になるのは私の夢だった。子供の頃、図書館で借りてきた本をドラム缶の上に座って読んだ遠い記憶。その頃から私は本の虜だった。図書館司書の免状も大学で取るはずだった。大学も文学部だった。だからといってたっちゃんの言ったように誰でも作家になれる訳じゃない。村上春樹が書いていたように「Some people can sing, others can't」なんだ。

たっちゃんがビールを持って入ってきても私は涙が止まらなかった。
「ほい、ビール。ま、座ろうぜ。」
私達は油絵のオイルの匂いのする部屋にぺたんと座り、ビールを飲む。たっちゃんは私の涙を見てみぬふりをしているのね。そういう優しさもあるんだなあ。

隣の部屋で携帯のベルが鳴り始める。たっちゃんのだ。
「電話よ。出んでええの?」
「出んでええ。」
「わかった。彼女でしょ。」
「違う。まあ、この前つきあってくれって言われたがやけど。きっとその女やで。しつこい。」
「まあ。なんでつきあわんの?」
「お客さんだったし、でも好きやない。」
「そうか。うまくいかんもんやね。」
「さやかは。」
「何が。」
たっちゃんは私の左手を取る。いきなり。私はちょっとびっくりする。
「見ないでよね。荒れてるんだから。ガソリンで。今日だって。」
「きれいな手やで。」
「酔ってんの」
「酔ってない。けど酔わんとこんなこと言えん。」
「あはは。離して。」
「離さん。」
「やだ。たっちゃん。」
「夢を追うのは疲れるけど、それを続けるのが夢かもしれん。」
たっちゃんは私の左手をじっと見ている。

私は何も言えなかった。

たっちゃんと一緒なら、もしかしたら私はいつか作家になれるかもしれない。私の手を握ってくれるたっちゃんの手はとても暖かい。一人でいるよりあったかい。確かに。

ガソリンスタンドで空を見上げてガソリンを入れている時、私は父の声をいつも聞いているような気がする。
ガソリンとオイルと車の排気ガスの匂い。ずっと嫌いだと思っていたそれらは私の故郷の匂いなのかも知れない。青いガソリンスタンドの屋根の上のを鳥たちが飛ぶ。白い雲の浮かぶ空。見上げる私。

私の涙はなかなか止まらない。

 

 

 

written on 17th May 2001

 


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