two
今にも雪が降りそうだった。
いつしか栗鼠たちはもう木の上から降りて来なくなっていた。彼女は袋を畳んでバッグに入れたのを見て、どう?コーヒーでも飲みに行かない?近くにおいしいマフィンを出しているカフェがあるんだ、と言ってみた。彼女のことをもっと知りたかった。彼女は微笑んで言った。
「知ってる。そこ、グランマズ、ってとこでしょう」
「ああ、そうだ」
「美味しいわね。随分長いこと食べてないわ。あの大きなマフィン」
そう言いながら彼女は手元を見た。腕に巻いたシルバーのアクセサリーだと思ったものは時計らしかった。
「いいわ。寒いし。少しならまだ」
そう彼女が言ったので思わず僕は心の中でヤッホーと叫んだ。会社に帰ることは後回しにした。
僕たちは立ち上がってパインストリートを歩いた。
「それにしても」
横を歩きながら僕は行った。
「栗鼠たちはわかってるんだね。ナッツがなくなるって」
僕の横を歩く彼女の肩にかかる黒髪がはらりはらりと揺れている。通りではどこかへ行く人たちがたくさん歩いている。
「そうね。わかってる」
「知らなかった」
「そうかもね。誰も知らないかもしれない」
「でも君は知ってる」
「あげてるからだわ」
「ナッツをあげる人とあげない人と」
「そうね。そういう感じね」
「人は分かれるんだ。そういう感じに」
彼女はちょっと僕を不思議そうに見た。
「あなたってそういう風に思うのね」
僕たちは『グランマズ』に着いた。店内は暖かくほどほどに混んでいた。よくきいた暖房と赤いギンガムチェックのテーブルクロスのかかったテーブル。小さな音量でジャズが流れていた。通りを見渡せる大きな窓際の席が空いていたので僕はそこにしようと言った。彼女はフラノのコートを脱いで壁のフックにかけ、あなたのもかけましょうか、と聞いたので僕は彼女に紺色のPコートとマフラーを脱ぎ、渡した。隣のフックに彼女はそれを丁寧にかけた。
彼女は、白色の高級そうなカシミアのカーディガンを着てグレーのスカートをはき、黒い皮の膝までのブーツを履いていた。シンプルなのに優雅だ。若い彼女を惹きたてている。丸い茶色のアンティーク風の椅子に腰掛けメニューを眺める彼女は本当に美しかった。
「決まった?」
「メイプルマフィンにするわ。それとカプチーノ」
僕はウエイトレスに注文を伝えた。僕はクランベリーマフィンとコーヒーにした。
「さっきの話だけど」
「何の?」
「栗鼠の」
「栗鼠の?」
「僕はもう知っている側にいる。君のおかげで」
「ああ、その話。そうね」
「長いこといるの?ニューヨークに」
「そうね。長いわ」
彼女はちらりと隣のテーブルを見た。隣のテーブルはブリーフケースをそばの椅子に置いた中年の紳士で、新聞を読んでいた。彼の目の前に置かれた少し食べかけのマフィン。白い陶器のコーヒーカップから湯気が上がっている。
「美味しそう」
「そうだな」
きっと話をそらしたいんだな。
「あなたはニューヨーク出身?」
「違う。オハイオから」
「そう」
赤毛の髪をポニーティルにしたウエイトレスが僕たちのマフィンとコーヒーを運んできた。彼女の水色の制服と白いフリルのついたエプロンがひらひら揺れている。
「ありがとう」
彼女はウエイトレスに微笑んだ。
「何か不都合がありましたら呼んでください、マム」
ウエイトレスが微笑み返した。
「きっとないわ。充分美味しいの知ってる」
彼女はまた微笑んでウエイトレスもサンキュー、マムと笑って言い、去った。
彼女は一口カプチーノを飲んだ。僕はマフィンをやっつけることにした。ターキーのサンドイッチしか食べていないのでまだ食べ足りていなかった。
「あなたはお仕事しているの?このあたりで」
「そうだよ」
マフィンはやはり美味かった。
「そう」
「屑みたいな仕事さ」
彼女はカプチーノを飲みながら
「屑みたいな仕事なんてないわ」
とまたきっぱりと言った。
「いや、本当に、そうなんだ。もう辞めようかと思っているとこなんだ」
「なぜ?」
僕はどんな仕事をしているか話した。事務仕事に追われ一日があっという間に終わってしまうこと、上司は口やかましいカスだし気が合わないこと。なぜ知り合って間もない女性にこんなことを話してしまうのか自分でもわからない。
彼女は静かにゆっくりカプチーノを飲み、マフィンにはまだ手をつけずに聞いていた。
「でも、屑なんかじゃない立派な仕事じゃない」
「僕は小説家になりたいんだ」
自分が駄々をこねる子供になったみたいな気分だった。
「だったらなるのね」
また口調がきっぱりとしている。
「そうだな」
「小説家……素敵ね。書くのが好きなのね」
彼女は少し微笑んで僕を見た。僕は思わず彼女の素直なまっすぐに自分を見る目に、目を背けたくなっていた。だんだん自分が恥ずかしくなってきた。
「すまない。君のことも知らないのに自分のことばかり愚痴ってしまった」
思えば彼女の名前もまだ知らない。自分もまだ名乗ってもいない。
「あら。いいのよ、全然」
彼女はマフィンを食べ始めた。
「僕は、高校の時、小説を書いて地元の新聞で賞をとったことがあるんだ」
「すごい」
「それがいけなかったのかもしれない。うぬぼれてしまった」
「そうなの」
「大学でこっちに来て、書いて一発あててやろうと思ってた。だけどだめなんだ」
「まだ、でしょ」
「まだまだだ。大学を卒業して食ってかなきゃいけないし」
「皆同じ。わたしもよ」
「君も大学はここで?」
「違うわ。日本で。それから」
彼女はマフィンを食べていたので、口ごもった。
ウエイトレスがコーヒーのおかわりをしに来たので僕はもうひとつマフィンを頼んだ。ウエイトレスは満足気だった。
「いいわね、このお店。暖かいわ」
「そうだな。暖房がよく効いてる」
「わたしの言う意味は雰囲気が暖かいってこと」
「なんたってここはグランマズだからな。グランドマザーか」
「あなたのグランドマザーは?」
「ああ、元気でいるよ。オハイオに。農場なんだ。僕の家は」
「いいわね」
「クリスマスにはカードやら手編みの靴下やらプレゼントやら山ほど来るよ」
「素敵」
本当に心の底からそう思っているような感じがした。
彼女の言葉はしん、としながらもなぜか心に響いた。静かに。彼女には人に話をさせる力を持っている気がした。聞き上手なのかもしれない。
「君のグランマは?」
「死んだわ、もう」
「二人とも?ごめん、こんなこと聞いて」
「わたし、両親はわたしの子供の時に離婚してて母親に育てられたの。父方のほうのお祖母さんはあまり知らないの。つきあいがないから。母のほうのお祖母さんは去年亡くなったの」
「そうか。お気の毒に」
「いいの。別に。大丈夫」
僕は2個目のマフィンを食べおかわりしたコーヒーを飲んでいる間、彼女は店のウィンドウの外を眺めながらカプチーノを飲んでいた。
「雪だわ」
彼女が言った。
僕も窓の外を見た。ちらほら、雪が降っている。通りを行く人々は寒そうに黙々と歩いていた。
「寒いけれど、わたし、冬のここが好きなの」
「僕は寒いから嫌だな。雪が積もると仕事に出るのが億劫だし。綺麗だとは思うけれど」
彼女は笑った。
「確かにね。寒いクリスマスの頃が一番つらいわ」
「なぜ?」
彼女はまた肩をすくめ、何も言わなかった。肩をすくめるのは癖なんだな。しばらくしてから
「家族がいないからかな。あなたみたいにプレゼントなど来ないもの」
と言った。
「じゃ、今年のクリスマスはパーティにでも行こうよ」
「え?」
驚いて彼女は僕を見た。僕は内心大胆な自分に驚いていたが続けて話した。
「いつも陽気なパーティを開いている友達がいるんだ。クィーンズに。友達って夫婦なんだけど。いつも呼ばれるんだ」
「そう。いいわね。アメリカ的だわ」
「皮肉?」
「いえ、違うわ。ごめんなさい。でもそんな先のことはわからないわ」
「そうだよね」
確かにな。まだ2月だ。
「わたし、そろそろ行かなきゃ」
彼女が時計を見た。
「もう?」
「ええ」
「また会えるかな」
彼女の黒っぽい瞳が少し笑っているような気がした。
「会えるかもね。またバッテリーパークで」
「でも……よかったら電話番号教えてくれないかな」
彼女は微笑んで席を立ちコートを着ながら
「いいわ」
と言った。
僕はコートのポケットに入れた小さなメモパッドとペンを取り出して彼女に渡した。
「さすが小説家志望なのね。そういうのポケットに入れてるんだ」
「いや、そういうわけじゃ」
ちょっと照れくさかった。自分のことを人に話すのは苦手なはずなのに彼女にはぺらぺら話してしまったけれど。
彼女はまた椅子に座り、赤いチェックのテーブルクロスのかかったテーブルの上でメモパッドに僕には読めない字を書き、下に電話番号を書いた。
渡されて、
「これ、カンジ?なんて読むの?名前?」
と聞いてみた。
彼女は笑って
「ユキ、と読む雪という漢字なの。わたしの名前。その目の前の降る雪と同じ意味。」
と言い席を立ち、バッグから財布を取り出した。
「僕が払うよ。誘ったんだし、ええと、ユキ。僕はウォーレン。なんていうか、話を聞いてくれてありがとう」
「いいえ、こちらこそ、おかげで温まったし美味しかったわ。ありがとう。ウォーレン」
彼女は手を少し振りながらドアに向かって歩いていた。
「またね、ユキ」
自分でも何だか恥ずかしいほどの声だった。
ユキは振り向いて
「またね」
と言い、ドアを開けて雪の中を歩いて行った。
to be continued
March 11 2009