バッテリーパーク

 

 

 

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 one

 

 

僕は彼女が好きだった。1995年のことだ。

 

なんだか自分が打ちのめされているような気がしてひとりで公園のベンチに座りランチを食べていた。自由の女神像を見るためにフェリーに乗る観光客たちが僕の前をたくさん通り過ぎて行った。真冬だ。確かグレーのマフラーを首に巻いていた。1995年の年の初めに彼女に会った。

冬だけど観光客はニューヨークにたくさんやってくる。いいことだ。だが僕の会社は忙しいばかりで面白くなかった。他の仕事を探したほうがいいのかもしれない。小説を書く余裕が欲しい。そんなことを考えてコーヒーを飲んでいた。鬱屈した気持ちだけはしっかりと覚えている。だが同時に彼女のことだけは忘れられない。こうしてパソコンのキーを叩いていると当時の色々なことを思い出してくる。不思議だ。

 

隣のベンチに東洋人らしい女性が大きなショルダーバッグを肩にかけて腰かけた。明らかに観光客らしくなく、このグレーの空と町にぴったり合った感じがしたのでここに住んでいるのだと思った。グレーのフラノのコートを着て白い毛糸のベレー帽をかぶっていた。手袋は黒の皮。

ベンチの背のあたりには大きな木がある。彼女がごそごそとバッグから茶色の紙袋を取り出すと、木から栗鼠が降りてきたので僕はびっくりした。この公園で栗鼠を見たのは初めてだった。いつも会社に行き帰りに通っていたのに。

栗鼠は彼女のベンチの上で手から差し出された木の実を小さな手に取って、いそいそと食べていた。僕は思わずじっと見つめてしまった。食べかけのサンドイッチをあげてもいいかな、と言ったのは好奇心からだった。彼女はまっすぐの長い黒髪をしていた。僕のほうに向いた時に髪がはらっと肩に舞ったのが印象的だった。彼女は少し笑って言った。美人だ。

「でも食べないかも」

少し母音の強い英語だった。でもイタリア人なわけないよな。

「そうか。何やってるの」

「ウォールナッツ」

「なんだか慣れているみたいだね」

もう一匹来たので僕は更に驚いた。そいつに彼女は袋から木の実を取り出して与えた。尻尾がやたらふさふさしている栗鼠だった。

「ええ。慣れてるわ」

「そう。よく来るの?」

僕はサンドイッチを食べた。

「ええ」

しばらく何も言うことがなかった。2匹の栗鼠はせっせと食べていた。数個食べ終わると、ナッツを木の上に持って行き、また帰ってきて彼女はまたあげて……という繰り返す作業のようなものを僕は見ていた。なんだか統制のとれていて無駄のない動きが新鮮だった。

「かわいいね」

コーヒーがなくなった。寒い。彼女の鼻も少し赤かった。

「寒いね」

「そうね」

「中国人ですか」

「いいえ」

きっぱりと彼女は否定した。

「日本人です」

「そう」

冬の午後のバッテリーパークで栗鼠にナッツをやる日本人。様々な人種がいるニューヨークで何も驚くことはないんだろうけれど、なんだか奇妙だった。

「日本では、日本人てみんな栗鼠にナッツをあげるの」

彼女は大きな目をしていて僕のほうに向いて笑った。明るい笑い声だった。ひとしきり笑って言った。

「あはは。まさか。栗鼠、あまり見ないわ。少なくとも私の故郷では」

「そうなんだ」

「ええ。数年前にここで栗鼠に何かあげている浮浪者を見てからそれから私もたまにあげに来るの」

「どうして?」

「その浮浪者が死んでしまったの。去年の冬の初めの寒波の時に」

「その浮浪者と……知り合いだったの

「いえ。彼とはちょっとだけ話をしたことがあるわ。死んだのは他の浮浪者から聞いたの」

「へえ」

僕は驚いた。彼女の様子でどう考えてみても浮浪者と知り合いだということが似つかわしくなかった。彼女の持っているショルダーバッグは有名なショップのものに違いなかったし。ランチタイムの終わりの時間になってしまった。だがもう少し彼女のことを聞いてみたいと思ったので時間は無視することにした。

驚いた表情をしたのを見た彼女は肩をすくめて言った。

「私も同じようなものだと思って。浮浪者と」

「そんなわけないだろうに」

彼女はまた笑った。陽気な性質なのだろうか。

「いつそうなるかわからないわ。本当に。今はただラッキーなだけ」

観光客らしき集団が通り過ぎて、ある女性が栗鼠に気がつき、ナッツをあげている彼女に何か話しかけた。僕にはわからない言葉だった。彼女は女性に言葉を返し、振り向きながら何か言いつつその女性は去った。

僕は

「なんて?」

と聞いた。

「日本からの観光客ね。日本人ですか?って聞かれてそうです、って言ったの。日本人は日本人がわかるのよ。アメリカ人はあまり見分けがつかないけれど。シンガポールから来たのってよく言われる」

「日本語ってカタカタしている言葉だね」

「それもよく言われるわ」

 

「ここで仕事をしているの?」

僕は聞いた。

「ええ。なんとか」

「日本に帰らないの」

「帰れないの」

「どうして」

「なんというか」

彼女はまた肩をすくめて言葉を濁した。

「あなたはアメリカ人?」

「そうだ

 

栗鼠たちはせっせと木の実をまだ木の上に運んでいた。

 

 

to be continued

 

 March 7 2009

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