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別に約束をしたわけでもないのでメールをしたり電話をしたわけじゃなかった。それに一度だけ会ったただの知り合いだ。彼にとっても。私にとっても。

けれど、何だか彼にはわたしをわかってほしいなどと思っていたのだった。土曜の夜、彼と『プルート』で会った。偶然にも彼は奈菜の知り合いだった。奈菜と彼はひとしきり昔話に花を咲かせて、わたしは横でビールを飲みながら聞いていた。彼は奈菜の家のそばに住んでいて幼い頃からの知り合いだという。家が近いのに帰ってきたのを知らなかったわ、と奈菜が驚いた表情で話していた。だってほんの数日前だから、と彼もビールを飲みながら照れくさそうに笑った。彼はひとりで『プルート』に来ていた。

彼は東京か名古屋だったか、どこかで仕事をしていたらしかったが長男だし「そろそろ」親が年になってきたので地元の鷺洲市の公務員の試験を去年受け、無事合格し先月帰ってきたのだということだったと思う。それまで何の仕事をしてたのかも知らない。この町ではよく聞く話だ。公務員。安定。それがここで豊かに生きていく全てだ。

ビールの酔いにまかせて適当に聞いていたのであまり覚えていないのだけれど、彼のなんだか澄んだ目と丁寧な言葉遣いが印象に残ってわたしは彼に少しばかり惹かれていた。わたしも東京から帰ってきたいわゆる帰郷組だし共通の点があるというものだ。ただ、自分がいつか午前5時30分の始発電車に乗ってここを出て行ってしまおうといつも考えていることは言わなかった。まあ、これは誰にも話したことはないんだけれど。奈菜にさえも。

「ねえ、メルアド、教えて。友達になろー」と言ったのはわたしでかなり酔った後だった。普段ならそんなことは言えない。それを知っている奈菜は横で笑っていた。彼は「いいよ」と一言で携帯電話をジーンズのポケットから出して「赤外線できる?」と聞いた。「できる」とわたしも携帯電話をバッグから取り出した。またまた笑う奈菜。後できっとからかれるに決まっている。奈菜はうらやましいくらいとても陽気な酔い方をする。彼にもわたしのアドレスを教えた。

彼は数杯目のビールを飲んでいて、わたしたちは乾杯した。といっても「帰ってきてくれてありがとー。かんぱーい」と奈菜が言ったんだけど。彼は帰ってきたばかりだったので地元のナイトライフがめずらしいようだった。少なくともわたしにはそう見えた。面白そうに若者ばかりの店内の様子を見ていた。
「こんなに鷺洲市に若者がいるとは思わなかったよ」
と言って笑っていた。

 

それから一週間だ。でもわたしは彼にまた会いたくて、「なんとなく」を装って『プルート』に一人で土曜の晩に行こうかなと思った。先週の土曜に彼はそこにいたので今週もいるかもしれない。4月まで暇だと言ってたし。

奈菜に電話して誘ったのだが彼女は明日は、たくさんのケーキの注文を受けていて朝早くから忙しいのだということだった。
「そっか、ひな祭りだもんね、もうすぐ」
「そうなのよ。ホワイトディのも予約あるんだよ。気の早い。日曜に彼女に渡す、とかさ」
「へえ。奈菜のケーキは鷺洲一番だもんねー」
「何おだててんのよ。仕事だよ。明日だったらいいけどさ。日曜の夜だったらオーケーよ」
「そっか。なんだかね。今夜行きたくて」
「なんだか?なによ。何かあったの。また喧嘩でもした?」
「ううん、してないよ。ま、いっや。じゃ久しぶりに一人で行ってみるかな」
「そう?ごめんね。また行こう」
「うん。あ、お客さん来た。またね。がんばって」
「わかった。じゃね。そっちもがんばって」

そうしてわたしは『プルート』のごつごつした木のカウンターでひとり赤いプラスチックのスツールに座り壁のメニューを眺めていた。客がまばらに店内にいて軽いレゲエが流れていた。

ひそかに彼を探してみたけれど彼はいなかった。ため息をついていたらマスターがわたしに話しかけた。

「ひとり?めずらしいね」
「うん。何飲もうかな」
「何でも」

目の前につやつや緑色をしたライムが数個あったのでジンライムを飲むことにした。ここのカクテルはおいしい。

飲みながら自分が愚かでどうしようもないな、と思った。カウンターに置かれているピーナッツを数個つまんで食べた。

ここに来れば会えるかもしれないなんて。馬鹿みたい。わたし。

あれ?わたし、やっぱり彼のことを好きになったのかな。そんなわけない。一回しか会ってないじゃない。今まで一度しか会ったことのない人に恋をしたことなどないもの。そんなわけない。恋なんて。馬鹿みたい。何やってんだろう。わたし、やっぱここを出て行って自分の合った仕事を探さなきゃ。どんなに小さな画廊や出版社でもどこか絵に繋がった場所で仕事をしたい。都会だったらあるはずだ。それに、そうだわ。秋に展覧会に出す絵を描かなきゃいけないのに手をつけてないし。何を描こう。

だから恋などしている場合じゃないんだ。いずれここを出て行くんだから。

ジンライムをおかわりして、わたしはそう思った。でも、なんだろう。胸のこのわさわさしたようなものは。いわゆるときめきというものなんだろうか。わからない。でも彼に自分を知ってほしいなどと思う。これは恋なのかな。

3杯目のジンライムをおかわりしてため息をついた。何やってんの、という顔でマスターがわたしを見た。店内の曲はジャズボーカルに変わっていた。
本当に。
何やってんだろう。わたし。

 

 

 

 

 

to be continued

 

 

 

 

 March 5 2009

 

 

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